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宇宙飛行士ガガーリンのあの名言は言ってなかった?生涯から読み解く名言

2018年8月3日

ガガーリン

 

ユーリイ・ガガーリンといえば、世界で初めての有人宇宙飛行士として非常に有名ですね。

ここではそのガガーリンについて、

何とあの有名な名言は実は言っていなかった?

などについても併せてご紹介してみましょう。

(写真引用元:ユーリイ・ガガーリン wikipedia)

 

ガガーリンが宇宙飛行士になるまで

 

ユーリイ・ガガーリンは、ソビエト連邦ロシアの宇宙飛行士軍人パイロットで、

1961年に世界初の宇宙飛行士となってボストーク1号に一人で登場した人物として全世界的に有名です。

今回はこのガガーリンの生涯を紹介してみましょう。

 

ガガーリンはモスクワ西部ののグジャーツク市付近の村で1934年3月9日誕生しました。

 

労働者階級の英雄ということを強調するために両親は農民だったとされますが、

実際は父親は腕利きの大工、母親はインテリでした。

少年時代に数学教師がパイロットであったことが、

ガガーリンに影響を与えたとされています。

 

サラトフの学校でエアロクラブに入り、

次第に飛ぶことの楽しさに夢中になっていきました。

 

学校を卒業したガガーリンはパイロットを目指し、

1955年にはオレンブルグの空軍士官学校に入学しました。

 

卒業後はノルウェー国境付近のムルマンスク基地に配属されています。

 

1960年代はアメリカとソ連の間で本格的な宇宙開発競争が行われていたことが有名です。

 

当時のソ連ではそれに伴い宇宙飛行士の養成が始まり、

ガガーリンはその20人の候補生の一人になりました。

他の飛行士たちと宇宙飛行のために必要となる身体・精神についての

耐久性テストなど、厳しい訓練を受けました。

 

世界初の有人宇宙飛行を行うと決まった時、

パイロットはガガーリンかゲルマン・チトフの2名から選ばれることになりました。

 

この2人は訓練の結果が良かっただけでなく、

身長が低かったことがポイントにもなりました。

それは、ボストーク1号はとても小さく、

身長の高い人間が乗ることは難しかったからです。

そして、最終選考が行われガガーリンが選ばれました。

 

決定は政府上層部が行いましたが、

決め手になったのはガガーリンが上記のような労働者階級であった、また社交的で

ユーリイというロシア風の名前ということもあり選ばれました。

 

アメリカ・ソビエトとも、宇宙開発初期では宇宙飛行士という人物は

「戦闘機パイロット」から選ばれていました。

 

宇宙飛行という前人未到なものが、

人間にどういった影響をおよぼすのかわからなかったため、訓練は今よりもさらに過酷でした。

短い時間でも宇宙という「無重力環境でひとり」になるということで、

精神的にとても優れている必要があり、

多くのパイロットの中でもガガーリンはこれらの面で優れていたのです。

 

もう一人の候補者だったチトフは、後にガガーリンの後の2番目の宇宙飛行士になり、

自分で機体を操縦して大気圏外で物を食べるなどの実験をしており、

記録映像にも残されています。

 

ついに人類初の宇宙へ!

 

1961年4月12日、ガガーリンはボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行を成功させました。

その飛行中、「祖国は聞いている」と言う歌を口ずさみ、

自分を元気づけていたとされています。

 

その宇宙船は地球周回軌道に入って

大気圏外を1時間50分ほどで一周した後で、ソビエトの牧場に帰還しました。

 

当初は宇宙船と一緒に着陸したとされていましたが、

実際には高度7000メートルで着席ごとカプセルから射出、パラシュートで落下したという

非常に危険な落下方法を行なっていました。

 

なぜ、これが秘密になっていたのかというと、

当時は機内にとどまり戻らなければ成功と認定されないという「規定」があったためです。

 

つまり、着陸する前にパイロットがそこから離脱したときは、

トラブルと見なされて、成功したとされなかったからです。

 

このため、パラシュートで帰還したことは公にできない事実でした。

 

宇宙飛行中にガガーリンは中尉から少佐に昇進したというニュースを聞き喜びましたが、

宇宙のガガーリンにこの発表を伝えた理由は、

何と政府高官がガガーリンが生還する可能性が低いと見ていたからとも言われています。

 

 

地球に帰還、そして早すぎる死

 

それでも無事に地球に帰還したガガーリンは一躍時の人となりました。

 

当時のソビエトの首相・フルシチョフとの対面でこのように計画を成功させた共産党を賞賛しています。

 

フルシチョフにとっては通常の兵器を遅らせても進めたかった

ミサイル威力の増強計画の成功を示すものでした。

 

宇宙から帰った後のガガーリンはソビエトの宇宙分野に抜ける広告塔になって、世界を回りました。

 

そのような様変わりした環境にしだいに疲れ、酒を飲むようになり自傷行為もしています。

 

その後、再び飛行士になるために飛行訓練を再開しました。

しかし、1968年3月27日、教官とともに乗っていたMiG-15UTIの飛行中に墜落事故が起こり、

34歳という若さで死亡しました。

 

この事故死の真相は長い間不明で、

政治的な人為的事故といった陰謀論もありました。

 

登場する前に酒を飲んでいたという説もありましたが、

メディカルチェックで合格していて、死後に行われた検査でも

飲酒の証拠は見つかりませんでした。

 

2011年4月、機密解除となった当時の政府調査委員会報告書では、

気象観測気球または鳥と衝突することを避けようとし

操縦不能になったことが 原因とされています。

 

しかし、ガガーリンの同僚でこの調査委員会に加わっていた

アレクセイレオーノフはこれを否定しており、

調査結果に示された内容は捏造だったということを語っています。

 

レオーノフは2013年、 無許可で発信した飛行機が近くを通過し、

それを避けようとしたガガーリンの機体が回避できずに操縦不能となり、

それが墜落の原因だったと語っています。

 

また、この無許可の機体のパイロットはソビエトの英雄であり、名前を出さないことを条件として

真相を語ることを許されたとしています。

 

 

ガガーリンは宇宙でなにをした?ガガーリンの功績とは?

ガガーリン50周年切手

(写真引用元:ガガーリン50周年切手 wikipedia)

 

気になるのが、ガガーリンは宇宙に行ってなにをしていたのかですね。

 

ボストーク1号が1961年4月12日、バイコヌール宇宙基地より打ち上げられ、

地球の周回軌道に入ると、181km〜327kmという高度を、

地球自転速度よりも速く飛んで地球を1周しました。

 

その行程はソビエトの追跡船から中継されて、

ガガーリンは機器の状態や無重力下での体調、窓からの地球の情景等を無線によって伝え、

1時間48分後にボルゴグラードの北部サラトフ付近に着地しました。

 

人類初の有人宇宙飛行であるこのロケットでは、

乗員が操作できるものはほとんどなくて、緊急時にだけ制御盤を使える権限だけしかありせんでした。

 

しかしそれでも、人間が初めて大気圏を越え宇宙空間で生きられることを証明したことは、

非常に大きいといえるでしょう。

 

 

ガガーリンのあの言葉は言ってなかった?

 

ガガーリンといえば日本ではもちろんあの「地球は青かった」という名言が有名ですね。

しかし、ネットなどを見ると実は言っていなかったなどという説がよく見られます。

 

これはどういうことなんでしょうか?

 

実はこれはあまり大したなことでもないのですが、

つまり地球は青かったということをそのまま言ったわけではなく、

直訳では微妙に言葉が違うことを言ったというだけなのです。

 

ガガーリンは、正確には「地球は青かった」と言ったわけではなく

「空は非常に暗くで地球は青みがかっている」

と言ったそうです。

 

これが日本では「地球は青かった」と訳されたわけです。

 

言っていなかったということではなく、ニュアンスが違う言葉を言っていたということですね。

 

また、ガガーリンの名言は地球は青かっただけではなく、他にもあるのでご紹介してみましょう。

 

「さあ行こう」

というのは史上初の有人宇宙飛行の際に言った言葉であり、

この言葉は宇宙時代の幕開けとして東側諸国では有名な言葉になりました。

 

「神はいなかった」

これは宇宙飛行の最中の言葉と言われており、

「ここには神が見当たらない」という言葉です。

 

記録にはその種の言葉は残されていませんでしたが、

意外なことに日本以外では「地球は青かった」よりもこの言葉の方が有名なんだそうです。

 

これはやはりキリスト教文化圏と言う影響が大きいのかもしれません。

 

海外では「私は周りをみたが神はいなかった」という表現でよく引き合いとして出されています。

 

 

ガガーリンの名言の違いはあまり意味はないですね

 

人類初の宇宙飛行士、ガガーリンについてでした。

有名な「地球は青かった」とは、正式な表現ではなかったということですね。

ただそれも、微妙にニュアンスが違うというだけなので、あまり深い意味はないですが。

 

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