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ペンシルロケットとは?初めての実験史や国分寺など雑学を紹介

2019年2月3日

ペンシルロケット(国立科学博物館の展示)/ wikipedia引用

ペンシルロケット(国立科学博物館の展示)/ wikipedia引用

 

「ペンシル ロケット」という小型ロケットがあります。

このペンシルロケット、一般的にはあまりなじみがない感じですよね。

 

ということで、ここでそのペンシルロケットについていろいろとみていきましょう。

 

ペンシルロケットの概要について

ペンシルロケット/ wikipedia引用

ペンシルロケット/ wikipedia引用

 

ペンシル ロケットというのは、東京大学・生産技術研究所で故糸川英夫教授らが開発をした、全長23cmほどの超小型なロケットのことです。

開発名は小さな槍、「タイニー・ランス」というもので、今から50年以上前の1955年の4月12日に試射が初めて実施され、長さ1.5mほどの発射台から、水平発射されました。

 

これは、太平洋戦争以後、日本では初となる実験用ロケットでした。

年間予算は580万円で1954年から開発がスタートしました。

 

なぜ超小型になったのかというと、これは上記のような予算の都合があったからです。

しかし超小型ロケットというのは、日本人らしい感じですね。

 

火薬式の超小型なロケットを実験の装置に使用したのですが、その形状がまるで鉛筆のようだったため、「ペンシルロケット」という愛称になりました。

 

国際地球観測年の「IGY」というプロジェクトは1957年から1958年まで存在していたものですが、これは、世界各国の科学者が集まって地球を観測することで、地球の全体像を解明しようとしたプロジェクトです、

 

ここで高層大気の観測を行う方針が決定されたので、日本の東京大学・生産技術研究所「AVSA」の方針も、ロケット旅客機であったものから観測ロケットに変更しました。

 

ペンシルロケットは、合計で150機ほどが発射されました。

 

超小型なロケットであり、その能力も実用できるような物ではなかったのですが、ロケットシステムとしては成立していて、細かく言えばノーズコーン・尾翼の材質、重心の変化などによる空力変化からくる分散の影響等が調べられました。

 

「カッパロケット」や「ラムダロケット」の開発時には、フラッター現象の解析でこれらのデータが活用されています。

 

ペンシルロケットの実験史

ペンシルロケット/ wikipedia引用

ペンシルロケット/ wikipedia引用

 

ここでペンシルロケットの実験史についてみていきましょう。

日本のロケット開発は太平洋戦争の敗戦後、ゼロからのスタートとなりました。

 

1955年の3月11日、工学博士で「日本の宇宙開発の父」と称される糸川英夫が東京都の国分寺市によってペンシルロケットを水平発射する実験を行いました。この実験は、全長230mmほどのペンシル標準型が使われ、長さが1.5mの水平発射台によって発射されたロケットが、スクリーンを貫いて飛ぶというものでした。

 

この実験では、3月11日〜3月23日までにのべ29機というペンシルロケットが発射されました。

尾翼の取り付け角度や弾頭の重量などにバリエーションがあり、様々なロケット側の条件で基礎的なデータが収集された。

 

その3ヵ月後の1955年6月に、当時は千葉県の千葉市にあった東京大学の生産技術研究所において、実験水槽を改造した50mのピットでペンシルロケットの水平発射実験が行われました。

 

ここでは、全長300mmにもなってかなり大型になった「ペンシル300型」「二段式ペンシル」「無尾翼ペンシル」等が登場しました。

実験中に装着途中だった「二段式ペンシル」が配線ミスで誤って発射される事故が起きましたが、大きな事故にはなりませんでした。

 

そのまた2ヵ月後、1955年の2月には秋田県道川海岸において、ペンシルロケットを斜めに打ち上げるという実験がありました。

 

8月6日に行われた打ち上げは、発射台に難があったためペンシルロケットが発射した直後に砂浜に落ちて失敗になりました。

この発射台はすぐに改良され、その日の2度目の実験では打ち上げに成功。

 

使用された「ペンシル300型」は、燃料に四塩化チタンがあったので煙を出しながら16.8秒間飛行し、到達高度は600mで700mほど離れた海面に落ちたそうです。

しかし、こういった記録が詳細に残っているというのもすごいですね。

ペンシルロケットの斜め打ち上げの総飛翔機は6機で、8月8日に終了し、これからより大型のベビーロケットに計画が受け継がれていきました。

 

その後、高度100kmを目指したのが「カッパロケット」です。

ロケットの打ち上げ目標高度100kmを達成するためには、多くの解決しなければならない問題がありました。

 

当時高度100kmに達した世界のロケットでは、そのすべてが液体燃料方式でした。

 

独自技術を開発していたAVSAの研究班は、固体燃料にこだわりました。

 

「ベビー」「アルフアベータ」というロケットに続いての「カッパロケット」の開発で、強化プラスチック製ノズルを機体に採用したりして、空気抵抗を低くしたうえで、強度のあるアルミ製構造の本体にするなど、多くの工夫・試行錯誤を加えています。

 

そしてようやく2段式のロケット「カッパ6型」を開発し、1958年に高度60kmでしたがIGYに参加をすることができました。

 

 

国分寺には発射実験を記念した顕彰碑が

 

上記のように、日本のロケット開発の発祥の地が東京都の国分寺です。

国分寺のその場所には、現在ペンシルロケット発射実験を記念した顕彰碑があります。

 

2005年の4月に、国分寺でペンシルロケットが水平発射実験されて50年となりましたが、これを記念して国分寺市内の団体・JAXA・早稲田実業学校等の関係者が、「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰会を組織しました。

 

このペンシルロケット発射の地に顕彰碑を建立するため募金活動を行い、国分寺市内ばかりでなく全国の方々に協力を受け、2006年の4月1日にその顕彰碑の除幕式がありました。

 

顕彰碑の下にはあのSF漫画家の松本零士さんがデザインしたというタイムカプセルが埋められています。

中にはJAXA主催の「ペンシルロケット50周年記念事業」で募集があった「未来のロケット」のイラストや水平発射再現実験に使われたペンシルロケットが1機入っています。このタイムカプセルはペンシルロケット誕生100周年を迎える、2055の年4月吉日に開封されるというので、なんかだ夢がありますね!

 

 

小は大に通じるかも!?

 

日本が開発した超小型ロケット、「ペンシルロケット」についてでした。

やはり、超小型というのがいかにも日本らしいですね!

「大は小に通じる」ならぬ「小は大に通じる」(?)ということで、この技術や成果を大型ロケットに繋げられられるといいですね。

 

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